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はじめよう 横浜 ホテル生活!

それも、日本の支配階級は一貫して芸術や文化に金を出し惜しみすぎて、芸術の育成は庶民が払う木戸銭に全面依存しなきしゃならなかったのに対して、欧米では王侯貴族や金持ち、そして国家が芸術や文化のパトロンになってたっぷり金を出す習慣が確立していたからだ」とまでいっている。 いくらなんでも、こんなことまで「だから欧米は優秀で日本はだめだ」というお決まりの結論に持っていく材料にするのは、情けなきすぎゃしないだろうか。
ぼくは、どんなに高尚で洗練された芸術だろうが、国や貴族や大金持ちの保護なしには生きていけないなんでものは、消えてしまって一向にかまわないと思う。 もし、庶民の木戸銭にしか頼れなかったから歌舞伎は下品で猿雑でケパケパしくて言うことがくどい芸能になってしまったのだとしても、庶民がそれを求めていた結果なのだからいいではないか。
自力で生きていくこともできずに、国や金持ちにタか。 続ける「高尚な芸術」が大きな顔をしている社会に比べれば、はるかに健全だ。
気になるのは、川添の「日本の政府や金持ちは芸術・文化に金をかけなさすぎる」という主張は明治政府の公園政策に対する誤解にもとづいているのではないかということだ。 もう少し具体的に言うと、川添は明治政府のPF政策で財政的負担なしに開発された上野や浅草の公園を、戦後見る影もないほど縮小された貧乏くさいものとおなじようなものだったと思っているフシが見受けられる。
そこから、「国だってかけるべきところには金をかけなきゃだめだ。 オペラやバレエがあんなに上品に育ったのに、歌舞伎はいつまでたっても柄が悪いのは国が金をかけていないからだ」という結論が出てきたのではないだろうか。
そうだとすれば、これは完全な事実誤認だ。 「寺社から敷地を借りて公園を維持するのは、その寺社の教義を推奨したことになるから、政教分離の原則に反する」という奇妙な理屈で上野や浅草の寺から賃借していた土地の大部分を返さなければならなくなる前までは、上野でも浅草でも公園はいまよりはるかに広々としていて、そこに店を出している飲食店、遊技場といった施設もぜんぜん貧乏くさいものではなかった。
コベンハーゲンの都心にあるチボリ公園を思い浮かべればいいだろう。 あそこも、ある企業家がデンマーク王室の所有地を賃借して開発した、都市型レジャー施設だ。
レストランや遊技場が所狭しと軒を並べて客を取り合っているけれど、出ている店がみんな営利事業だからって、「貧乏くさい公園だ」という人はめったにいないはずだ。 この「寺社領地を国や自治体が賃借料を払って借りて公園や公共施設に使うと、その宗教を応援したことになり、政教分離の原則に反する」という不思議な論理は、上野のお山周辺や浅草六区周辺といった場所で、長年公園として親しまれてきた場所がお寺さんによって召し上げられることに使われてしまった。

しかも、ふつうの「不在地主が持っていた土地」だったとすれば、当然農地解放で小作人に所有権が渡っていたような土地でさえも、この「政教分離」にもとづく賃借地の返還では、地主である寺に所有権が戻ったといわれている。 これはやっぱり二次大戦直後でも相当な政治力を維持していたお寺さんが、政教分離の原則を一方mt自分たちの利益のために拡大解釈して、当時の日本政府や東京都が暗黙の承認を与えたという可能性が高い。
こうして、そうでなくとも潤いに欠ける都心部東側の公共用地は、この政教分離にもとづく公園用地の寺社領への再編入で、箸にも棒にもかからないほど貧弱なものになってしまった。 そして、渋谷や新宿のように明治中期に商圏が成立した街は、一九七0年代には、もう完全に若者の街へと変貌してスムーズに新しいサイクルが始まっていた。
ほんのわずかな遅れだが、大正デモクラシーの中で発展した池袋は高度成長の余韻が残っていた七0年代にはまだ代替わり適齢期になっていなかったので、新しい街への代替わりがあまりうまくいっていない。 うわもののスケールだけで考えれば、東武百貨店とホテルメトロポリタンが入った西口の巨大ピル群から、東京芸術劇場への街並みはけつこう立派なものだ。
まあ西新宿の超高層ビル街区には及びもつかないとしても、渋谷駅周辺に比べればはるかに金がかかっているのに、いったいなぜこんなにパッとしないかというと、まず新宿より北にあるという大きなハンディをしよっているうえに、街の代替わりが発展の六七0年代ではなく、閉塞の人九年代にぶつかってしまったからだ。 ただ、この街の寿七年説には重要な例外もある。
例外のうちで大きなものは、ニュータウンや再開発計画で作られた人工的な街だ。 この手の街は、居住系なら一斉入居した家族の世帯主の年齢とともに、そして、オフィス・商業系ならその街の新鮮さが失われるとともに、せいぜい二01三年のうちに老化してしまう。
この点については、街の気立ての良しあしに迫るでじっくり論ずることにして、小さな例外である六本木について説明しておこ六本木は「大正副都心」の一角を形成しているので、本来なら代替わりは一九八01九0年代に迎えるはずだった。 しかし、この街は渋谷・青山に近いけれど、営団地下鉄日比谷線ができるまでは車以外で行くのは非常に不便なところにあった。

この不便さがかえって幸いして、「進駐軍」の時代に箪用車を自由に乗り回せるような身分の米軍将校たちの、お気に入りの溜まり場になってしまった。 おかげで一九六0年代ごろには、街としては二代目に当たる戦後の六本木の性格はほぼ固まっていた。
ふつうの街なら七年かかる代替わりを二01一年のうちにやってしまったわけだ。 その結果、この街は七年サイクルの波が二本、二01三年のずれでやってくるというより、いつもどこか部分的に変わっているけれども、変わらないところはぜんぜん変わらないという、「年齢不詳の美女」といった感じの不思議な街に育っていった。
きつねたぬき実際、江戸時代からこの界隈では、ひんぱんに狐や狸がひとを化かすといわれていたらしい。 今ではスノッブな夜の繁華街となっている六本木も、かつては墓ばかり。
広尾は、ススキの広がる広尾ガ原で、タヌキが腹鼓をうつタヌキ磯子で盛り上がっていた。 狸穴も、よく七不思議にあげられていた場所である。
『続・麻布の名所今昔』には、「狸穴の婚礼」「狸穴の狸蕎麦」「狸穴の古調」と、三つも不思議があげられている。 このあたりはタヌキの王国だったのだ。
だからこそ、六本木の裏手、旧ソ連邦、いまのロシア共和国大使館があるあたりは狸穴と呼ばれているわけだ。 街自体が「年齢不詳の美女」なのだから、いまでも狐や狸に化かされる人が続出しているのは、無理もない。
六本木という街の懐の深さは、小汚い雑居ピルの最上階という最悪の立地で、「プラッスリー・ペルナール」のような店が大評判になるわけでもなく、かといってつぶれもせずにがんばっていられるところにも表れている。 この店、パプル前からずっとメニューもサービスもほとんど変えず、良心的な値段でフランス料理を出し続けている。
この店の近辺を通るたびに思い出すのが、ぼくが勤める会社で昔、株のセールスマンをしていた男だ。 一部では最高の美男子が生まれる人種的組み合わせと呼ばれている、イタリア人の父親とか。

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